2016年4月26日火曜日

音楽の官能性



春が来て、草木がどんどん枝を広げ葉を伸ばし始めましたねぇ〜!

産まれて、育って、成熟して、繁殖して、老いて、枯れて、、、、

果てしなく繰り返される生命のサイクルですけど、、

新しい命の誕生と成長の時期は、そんなサイクルの中でも一番わくわくするひとときですよね。

3月生まれってのも関係あるかもしれませんけど(笑)、やっぱり私は春が一番好きです。


さてさて、、、

ここ数ヶ月なんだかんだと忙しく移動しながら働いてるうちに、すっかりブログもご無沙汰しちゃっておりました(汗)。。



12月の頭にヴェトナム国立響とのラヴェル「ダフニスとクロエ」ヴェトナム初演を含む定期演奏会で初めてハノイに滞在し、ヴェトナム人のお友達がいっぱい出来た(笑)後、ウィーン国立音楽大学の教授選抜試験を受けに、ウィーンへ。
最終選考に残った6人ほどの人達と、学生のリハーサルを指揮したり、現代音楽史の授業したり、、、なかなか得難い体験でした!!

その後は、年末年始をインドネシアで過ごし、インドネシア・ユース響とハイドン&ベートーヴェンの録音やら、室内楽の演奏会でピアノ弾いたりやら、オケ運営会議やら。。。
(この時の録音は、製作段階からを辿った「ドキュメンタリーDVD」という形で、もうすぐ出来上がる予定なのです!)



それから更に日本へ移動。

インドネシアを飛び立ったときは気温が37度。

成田空港に着陸時の気温マイナス4度。

で、身体がついてゆけずにダウン。。。

が、そんな事も言ってられず、とりあえずお招き頂いた東京キアニス会にて、卓話。
インドネシア・ユース響の活動についての私の話を聞いて下さった方が、早速楽団への寄付を申し出て下さり、ありがたい限りでした!感謝!!

その後東京で3つの演奏会。

同姓同名のクラリネット奏者、麗しき阿部加奈子さんとピアノで共演させていただいた後は、今シーズンよりミュージック・パートナーを務めさせて頂いている若手現代音楽アンサンブル、トーキョー・アンサンナブル・ファクトリーとの定期演奏会。日本人とイタリア人の作曲家にスポットを当てたコンサート。大学の作曲科同級生で、いまや日本を代表する作曲家の1人鈴木純明さんの作品の日本初演なども含んだ、楽しいひとときでした!



続いては、今回2回目の客演となるオーケストラ・ニッポニカとの演奏会。
こちらも日本人&イタリア人作品のカップリング。
菅原明朗さんという作曲家、私は恥ずかしながら全く知りませんでしたが、、とても洒脱な方だったのかな、という印象をスコアより受けました。
イタリア人の巨匠ピッツェッティの交響曲。我が愛する師匠ファビオも「いや〜、知らないわ〜」と言ってた作品でしたが、、、めっちゃエエ曲やないですか(笑)!!!
こんな素晴らしい作品が滅多に演奏されないなんて勿体ない!、、と、いうことで、、早速フランスのオケにも推薦しておきましたよ〜〜!!!
しかし、オーケストラ・ニッポニカの皆様、毎度ながら熱の籠った素晴らしい演奏でした!!



お世話になったみなさまに、心より感謝!!!!です。


その後ちょっぴり大阪の実家に立ち寄り、両親に温泉連れて行ってもらったりなんかもした(笑)後、パリへ。

シャルル・ドゴール空港に着いたその足でパリ日本文化会館でのインタヴュー・ロケ。
今年11月にブリュッセルで行われるアルス・ムジカ現代音楽祭のテーマが「日本」なので、日本人作曲家についてなど、色々としゃべったのでした。。。
ロケ終わってすぐ、私の主宰する現代アンサンブルの演奏会へ。
ステージで司会をしたものの、時差ぼけなアタマで何しゃべったんだか、、覚えてないです(笑)。。。



その数日後に、今度は南仏のトゥーロンへ飛んで1週間滞在。

成田和子さん作曲・笈田ヨシさん演出の現代オペラ「夢」の指揮。
カウンターテナー歌手のドミニク・ヴィスさん他、素晴らしい面々の方達との貴重な時間、楽しませて頂きました!!




それから今度はすぐに東フランスのメス市へ移動。

10年程のお付き合いのロレーヌ国立管弦楽団との演奏会。
この演奏会もめっちゃ楽しかったです!!コンサートマスターのドゥニさん、大好き♡



それから今度は更に北フランスのアミアン市へ移動。
ピカルディ管弦楽団との3夜演奏会。
さすがにヘロヘロに疲れて来た私。。。
楽屋にずらーーーーーーーーっと並んだRed Bullの空き缶を見たオケの事務局のファビアンさんから
「ちょっとそれ、ヤバいですよ〜。。。」
と心配されつつ(苦笑)も、楽しく演奏会を終了!!
コンチェルトで共演させていただいた、フルーティストのフィリップ・ベルノルドさん。
もの凄く才能溢れるアーティストですね!!すっかりファンになっちゃいました(笑)。


まあ、そんなこんなでドタバタあちこちかけずり回った後も、ポルトガルやらドイツやらオランダやらに行ったりして、全然落ち着きのない毎日を送る私です(苦笑)。。。


それにしても、先日ピカルディ管とモーツァルトの40番を演奏している時につくづく感じたのですが、、、

私の内面が随分変わりつつある!!!

なんかこう、今まで自分とは遠い世界だと思ってた作品が、心にすんなり響くようになってきた気がします。

官能的な音楽。

内面の慟哭を表した音楽。


変化した、というよりは、元々持っていた私の本来の性質が素直に出て来たのかもしれません。

人間の心の世界って、本当に無限大で、不思議ですよね。扉を開ければ、出て来るわ出て来るわ、色んなモンがドロドロと(笑)!!

まあ、続けて精進致します!!!



あと、最近つくづく思うのは、、

色々と観察していると、、
他人の有り様をあるがままに正確に捉え、理解し、それをまるごと受け止められる人は、実はそんなにいないのかもしれません。

自分が他人に「こうあって欲しい!」「こうなってほしい!」と望む理想像や願望の色眼鏡で、他人の本当の姿を自分勝手に歪んで見るのは愛じゃないよなあ。。
そうやって他人を自分の都合の良いように捉えて不幸にしてしまう事の無い様に気をつけたいなあ、と思う今日この頃、なのであります。

こちらも精進ですね(笑)。。

とにもかくにも、お世話になっているみなさま&応援して下さってる皆様に感謝!!!!


さて、ではジムで汗を流して来ます(すでに6キロも痩せたんですぜ〜!!!!)!















2015年10月20日火曜日

見えない糸



3ヶ月間の夏のアジア滞在を終えてパリに帰って来たと思ったら、、

あっという間に「冬」になってしまいました。。。。

まだ10月なんだし、もう少し秋の情緒を味わいたいものですが、なにせヨーロッパの気候には「中間」というものがないからなぁ〜(笑)。。。



それにしてもこの夏は、インドネシアやら日本やら、あちこちで実にいろ〜〜〜〜んな!事が在り、沢山の方々と出会いました。

電光のごとく突然現れ、新たな衝撃をを与えて去って行く方々、

穏やかに辛抱強く寄り添い、支え続けて下さる方々、

いつの間にかやって来て、ふと気づけば共に励まし合いながら同じ方向を歩んでいる方々。

人との出会いや関わりもそれぞれですが、、、

素敵な出会い無くして、私のちっぽけな人生がこんなに充実して彩りに満ちた、楽しく幸せなものなはずがあろうか!!!

エキサイティングな人生に感謝!

生んでくれた両親に感謝!

そして、

お世話になった全ての方々に、只々感謝です !!!!

素晴らしいご縁や皆様の御厚意に恩返しが出来るよう、これからもよろよろと危なっかしい足取りではありますが(笑)精進してゆきたい所存です。

どうぞよろしくお見守り下さいませ。。。



3ヶ月もブログを放置しておくと、もうねぇ〜、、、、

色々あり過ぎてなんにも書けませんですわ(笑)。。


ただ、

怒濤の日々の中で最近つくづく感じるのは、、

私の人生、明らかに10年程前にぼんやりと思い描いていたものとは方向性が違って来ている、ということ。

特にここ5年程で180度位変わってしまったかもしれません。

しかも、

舵を取っているのが「自分自身」という気がどうもしない(笑)。

でも、

方向性が変わるきっかけは何だったのか、と考えると、、、

私自身が何か外部の出来事にひどく心を動かされ、触発されて、それまでの自分の行動パターンや常識の中では発想し得なかった事を止むに止まれず実践したからだと思うのです。

たぶんそれは、自分自身の深層から湧き上って来た

「本当にやりたいこと」

だったのではないか、と。

いや、

「やりたいこと」

というよりは

「やるべきこと」

という表現の方が近いかもしれません。

そして、その「やるべきこと」に身を任せていると、

そこからどんどん次なる道が作られてゆくのですよ。。。

そんな流れを感じる時、私は思わず我々を見守る「大いなる存在」のようなものを意識せずにはいられません。

それを「神様」だと言う人もいるでしょう。

私は昔から星を見るのが好きだから、「宇宙のエネルギー」みたいに捉えていますが。

なんかエラく宗教的な話ですねえ、我ながら(笑)。。。

でもまあ、自分の心がちゃんと宇宙の振動と共鳴しているのを感じると、何だか安心します。





これからの人生どうなるんだか。。。。

もはやさっぱりわかりませんが(笑)、

周りも自分も幸せになれるような生き方ができればいいなぁ〜、と願います。




と、いうことで、、、


今から仕事に行ってきます。

今日はCDの録音!!

帰ったらドイツ語の勉強だぁ!(笑)


みなさんも良い秋の日々をお過ごし下さいね!

アホーヤ


下のリンクは、先日友人のジャズシンガーにプレゼントしてもらったCDの中に入っていたもの。なかなか魅力的で気に入っています。

















2015年7月5日日曜日

たまさかの逢瀬


七夕の日を前に。

昔から好きで時々読み返している本の内容を箇条書きでうまくまとめたものをネット上で発見したので、忘備録がわりに貼付けておきます。

なんか、個人的な目的でブログ使っちゃって申し訳ないですけど(汗)、、、

もしこの箇条書きの内容がみなさんにとっても参考になれば、と思い、一応公開致しますね。

ではでは!

来週からしばらく日本滞在です!楽しみ〜〜〜〜〜!!!!

お世話になる方、どうぞよろしく御願い致します!!!








エーリッヒ・フロム『愛するということ』(鈴木晶訳・紀伊国屋書店)から
(フロム愛1)
愛というものは簡単に浸れるような感情ではない。
真の意味で人を愛するには、自分の人格を発達させ、それが生産的な方向に向くよう全力で努力しなければならない。

(フロム愛2)
われわれが生きているこの社会では、愛する能力を身につけることは容易ではない。
実際、真に人を愛することのできる人は驚くほどに少ない。
しかし愛する能力を身につけるための仕事が困難だからといって、その努力を放棄してはならない。

(フロム愛3)
人びとが愛を軽く見ているわけではない。
それどころか誰もが愛に飢えている。
ところが、愛について学ばなければならないことがあるのだと考えている人はほとんどいない。
それはなぜだろう。

(フロム愛4)
愛について学ぶことはないと考える第一の理由は、たいていの人は愛の問題を、「愛する能力」の問題ではなく、「愛される」という問題として捉えているからだ。
つまり人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるかということなのだ。

(フロム愛5)
愛について学ぶことはないと考える第二の理由は、愛の問題は「対象」の問題であって、「能力」の問題ではない、という思い込みである。
愛することは簡単だが、ふさわしい相手をみつけることはむずかしい、人びとはそんなふうに考えている。

(フロム愛6)
愛について学ぶことはないと考える第三の理由は、恋に「落ちる」という最初の体験と、愛のなかに「とどまっている」という持続的な状態とを、混同していることである。

(フロム愛7)
愛の失敗を克服するただ一つの方法は、愛の意味を学ぶこと、その第一歩は、生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であるということを知ることである。
愛の技術を習得するには、理論に精通し、その習練に励み、その技術を習得することが究極の関心事にならなければならない。



(フロム愛8)
人間は孤立することを最も恐れている。
孤立は強い不安を生む。
人間の最も強い欲求は、孤立を克服したいという欲求である。
人間はいつのどの時代でも、同じ一つの問題の解決に迫られている。
いかに孤立を克服するか、いかに他者との一体化を得るか、という問題である。

(フロム愛9)
人間は孤立感から逃れるために、「祝祭的な興奮状態」「集団等への同調」「創造的な活動」といった方法をとるが、完全な答えは人間どうしの一体化、他者との融合、すなわち「愛」にある。
自分以外の人間と融合したいというこの欲望は、人間の最も強い欲望である。

(フロム愛10)
愛は人間のなかにある能動的な力である。
人を他の人びとから隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である。
愛によって、人は孤独感や孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。

(フロム愛11)
愛においては二人が一人になり、しかも二人でありつづけるというパラドックスが起きる。

(フロム愛12)
静かに椅子にすわって自分自身に耳を傾けひたすら物思いにふけっている人は、外見的には何もしていないので「受動的」と言われる。
だが実際は、この精神を集中した瞑想の姿勢はもっとも高度な活動である。
内面的な自由と独立がなければ実現できない魂の活動である。

(フロム愛13)
愛は能動的な活動であり受動的な感情ではない。
そのなかに「落ちる」ものではなく「みずから踏みこむ」ものである。
愛は何よりも与えることであり、もらうことではない。
たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ。

(フロム愛14)
愛とは愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことができないということである。
「愛は愛とだけしか交換できない。もし人を愛してもその人の心に愛が生まれなかったとしたら、その愛は無力であり不幸である。(マルクス)」

(フロム愛15)
真に人を愛するには、その人の性格が生産的な段階に達していなければならない。
この段階に達した人は、依存心、ナルシシズム的な全能感、他人を利用しようとなんでも貯めこもうする欲求を克服し、自分の中にある人間的な力を信じ、自分の力に頼ろうという勇気を獲得している。

(フロム愛16)
愛の能動的性質を示す基本的な要素に「配慮」がある。
愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。
この積極的な配慮のないところに愛はない。
愛の本質は、何かのために「働く」こと、「何かを育てる」ことにある。
愛と労働は分かちがたいものである。



(フロム愛17)
愛の基本的要素「責任」。
責任とは他の人間が何かを求めてきたときの私の対応である。
「責任がある」ということは、他人の要求に応じられる、応じる用意がある、という意味である。
愛する心をもつ人は求めに応じる。
おとなどうしの愛の場合は、相手の精神的な求めに応じることである。

(フロム愛18)
愛の基本的要素「尊敬」。
尊敬とは人間のありままの姿をみて、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。
自分が独立していなければ人を尊敬することはできない。
自由であってはじめて人を尊敬できる。
「愛は自由の子」であり、けっして支配の子ではない。

(フロム愛19)
愛の基本的要素「知」。
人を尊敬するにはその人のことを知らなければならない。
自分自身にたいする関心を超越して、相手の立場にたってその人を見ることができたときにはじめて、その人を知ることができる。

(フロム愛20)
他の人と融合したいという基本的な欲求は、「人間の秘密」を知りたいという人間的な欲求と密接にかかわっている。
秘密を知るための方法が一つある。ただし絶望的な方法ではある。
それは、他人を完全に力で抑えこむことである。
「秘密」を知るためのもう一つの方法が愛である。

(フロム愛21)
愛とは能動的に相手の中へと入っていくことであり、その結合によって相手の秘密を知りたいという欲望が満たされる。
融合において、私はあなたを知り、私自身を知り、すべての人間を知る。
愛こそが他の存在を知る唯一の方法である。

(フロム愛22)
人間を知るという問題は、神を知るという宗教的な問題と平行関係にある。
神学の論理的帰結が神秘主義であるように、心理学の究極の帰結は愛である。

(フロム愛23)
成熟した人間とは、自分の力を生産的に発達させる人、自分でそのために働いたもの以外は欲しがらない人、全知全能というナルシシズム的な夢を捨てた人、純粋に生産的な活動からのみ得られる内的な力に裏打ちされた謙虚さを身につけた人のことである。



(フロム愛24)
母親の愛は無条件の愛である。
母親に愛されるというすべての経験は統合され、私は愛されているという経験へと結晶する。
しなければならないことといったら、生きていること、そして母親の子どもであることだけだ。
無条件であるだけに、どんなことをしても創りだすことはできない。

(フロム愛25)
十歳くらいの年齢に達するまで、子どもにとって問題なのはもっぱら愛されること、つまりありのままの自分を愛されることだけだ。
やがて子どもはナルシシズムと自己中心主義によって築かれた孤独と隔離の独房から抜け出す。
愛することを通じて、愛を生み出す能力を自分の中に感じる。

(フロム愛26)
幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。
成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。
未成熟な愛は「あなたが必要だからあなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているからあなたが必要だ」と言う。

(フロム愛27)
父親の愛は条件つきの愛である。
子どもを教育し、世界へつながる道を教える。
条件つきなので、父親の愛を受けるには資格がいる、つまり期待にこたえなかった場合にはその愛を失うということである。
父親の愛の性質からすると、服従こそが最大の美徳である。

(フロム愛28)
やがて子どもは成熟し、自分自身が自分の母親であり父親であるような状態に達する。
成熟した人間は実際の母親や父親からは自由になっており、自分の内部に母親像と父親像をつくりあげている。
母親的良心と父親的良心は矛盾するように見えるが、成熟した人間はその両方で人を愛する。

(フロム愛29)
母親への愛着から父親への愛着へと変わり、最後に双方が統合されるというこの発達こそ、精神の健康の基礎であり、成熟の達成である。
神経症の基本原因は、この発達がうまくいかないことである。



(フロム愛30)
愛とは、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。
一人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。

(フロム愛31)
誰かに「あなたを愛している」と言うことができるなら、「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」と言えるはずだ。

(フロム愛32)
兄弟愛とは、あらゆる他人にたいする責任、配慮、尊敬、理解(知)のことであり、その人の人生をより深いものにしたいという願望のことである。
もし愛する能力がじゅうぶんに発達していたら、兄弟たちを愛さずにはいられない。
兄弟愛の底にあるのは、私たちは一つだという意識である。

(フロム愛33)
すべての人間がもつ人間的な核は同一であり、それに比べたら、才能や知性や知識のちがいなど取るに足らない。
この同一感を体験するためには、表面から核まで踏みこむことが必要である。
この中心と中心との関係が「中心的関係」である。

(フロム愛34)
自分の役に立たない者を愛するときにはじめて、愛は開花する。

(フロム愛35)
母性愛は子どもの生命と必要性に対する無条件の肯定である。
母性愛の一つの側面は、子どもの生命と成長を保護するために絶対に必要な、気づかいと責任である。

(フロム愛36)
母性愛のもう一つの側面は、生きることへの愛を子どもに植えつけ、「生きているというのはすばらしい」「子どもであるというのは良いことだ」「この地上に生を受けたことはすばらしい」といった感覚を子どもに与えるような態度である。

(フロム愛37)
母性愛の二つの側面は、聖書の象徴にも表現されている。
約束の地(大地はつねに母の象徴)は、「乳と蜜の流れる地」として描かれている。
乳は愛の第一の側面、すなわち世話と肯定の象徴である。
蜜は人生の甘美さや、人生への愛や、生きていることの幸福を象徴している。

(フロム愛38)
たいていの母親は「乳」を与えることはできるが、「蜜」も与えることのできる母親はごく少数で、そのためには母親はたんなる「良い母親」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならないが、そういう母親はめったにいない。

(フロム愛39)
人生にたいする母親の愛は、不安と同じく子どもに感染しやすい。
どちらも子どもの全人格に深刻な影響をおよぼす。
実際、子どもたちのなかに——いや大人たちのなかにさえ——「乳」だけを与えられた者と、「乳と蜜」を与えられた者とを見分けることができるくらいである。

(フロム愛40)
母性愛の本質は子どもの成長を気づかうことであり、これはつまり子どもが自分から離れてゆくのを望むということである。
母親は子どもの巣立ちを耐え忍ぶだけでなく、それを望み、後押ししなければならない。

(フロム愛41)
愛情深い母親になれるかなれないかは、すすんで別離に堪えるかどうか、そして別離の後も変わらず愛しつづけることができるかどうかによるのである。



(フロム愛42)
異性愛とは、他の人間と完全に融合したい、一つになりたいという強い願望である。
異性愛はその性質からして排他的であり、普遍的ではない。
またおそらくはもっとも誤解されやすい愛の形である。
愛は自分の全人生を相手の人生に賭けようという決断の行為であるべきだ。

(フロム愛43)
誰かを愛するというのは単なる激しい感情ではない。
それは決意であり、決断であり、約束である。
もし愛が単なる感情にすぎないとしたら、「あなたを永遠に愛します」という約束はなんの根拠もないことになる。

(フロム愛44)
愛は誰かに影響されて生まれるものではなく、自分自身の愛する能力にもとづいて、愛する人の成長と幸福を積極的に求めることである。
一人の人間を愛するということは、人間そのものを愛することでもある。



(フロム愛45)
自己愛。
私自身も他人と同じく私の愛の対象になりうる。
自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち気づかい・尊敬・責任・理解(知)に根ざしている。
もしある人が生産的に愛することができるとしたら、その人はその人自身をも愛している。

(フロム愛46)
自己愛。
もし他人しか愛せないとしたら、その人はまったく愛することができないのである。
利己主義と自己愛とは、同じどころかまったく正反対である。
利己的な人は自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。
いや実際のところ彼は自分を憎んでいるのだ。

(フロム愛47)
子どもをかまいすぎる母親は、意識の上では心から子どもを愛していると思いこんでいるが、実は深く抑圧された憎悪を抱いている。
彼女が子どもをかまいすぎるのは、子どもを愛しすぎているからではなく、子どもを全然愛することができず、それを償おうとしているからだ。

(フロム愛48)
神への愛。
真に宗教的な人は、もしも一神教思想の本質に従うならば、何かを願って祈ったりしないし、神に対していっさい何も求めない。
そういう人は、自分の限界を知るだけの謙虚さを身につけており、自分が神について何一つ知らないということを承知している。

(フロム愛49)
彼はこう考える。
人生は、自分の人間としての能力をより大きく開花できるような機会を与えてくれるという意味においてのみ価値があり、能力の開花こそが真に重要な唯一の現実であり、「究極的関心」の唯一の対象なのだと。
そして彼は神について語らないし、その名を口にすることもない。

(フロム愛50)
従って神を愛するということは、最大限の愛する能力を獲得したいと願うことであり、「神」が象徴しているものを実現したいと望むことなのである。
神への愛とは思考によって神を知ることではなく、神との一体感を経験する行為である。
それゆえ正しい生き方が重視されることになる。

(フロム愛51)
神への愛は、はじめは母なる女神への無力な者の依存であり、次に父性的な神への服従となり、成熟した段階になると、人間は神を、人間の外側にある力とみなすことはやめ、愛と正義の原理を自分自身のなかに取りこみ、神と一つになる。

(フロム愛52)
そして最終的には、詩的にあるいは象徴的にしか神について語らないようになる。
問題はその人がどこまで成熟したかということなのである。



(フロム愛53)
西洋文明の社会構造とそこから生まれた精神は、愛の発達を促すものではない。
現代の社会が必要としている人間は、大人数で円滑に協力しあう人間、飽くことなく消費したがる人間、好みが標準化されていて外からの影響を受けやすく、その行動を予測しやすい人間である。

(フロム愛54)
また自分は自由で独立していると信じ、いかなる権威・主義・良心にも服従せず、それでいて命令には進んで従い、期待に沿うように行動し、摩擦を起こすことなく社会という機械に自分をはめこむような人間、命令に黙々と従って働く人間である。

(フロム愛55)
その結果、現代人は自分自身からも、仲間からも、自然からも疎外されている。
誰もが孤独で、孤独を克服できないときにかならずやってくる不安定感・不安感・罪悪感におびえている。

(フロム愛56)
愛があっても対立は起きる。
二人の人間の間に起きる真の対立は決して破壊的ではない。
そういう対立はかならずや解決し、カタルシスをもたらし、それによって二人はより豊かな知識と能力を得る。

(フロム愛57)
二人の人間が自分たちの存在の中心と中心で意志を通じあうとき、すなわちそれぞれが自分の存在の中心において自分自身を経験するとき、はじめて愛が生まれる。
この「中心における経験」の中にしか人間の現実はない。

(フロム愛58)
人間の生は「自分の中心における経験」の中にしかなく、従って愛の基盤もそこにしかない。
そうした経験にもとづく愛は、たえまない挑戦である。
それは安らぎの場ではなく、活動であり、成長であり、共同作業である。

(フロム愛59)
調和があるのか対立があるのかは、根本的な事実に比べたら取るに足らない問題だ。
根本的な事実とは、二人の人間がそれぞれの存在の本質において自分自身を経験し、自分自身と一体化することによって相手と一体化するということである。

(フロム愛60)
愛があることを証明するものはただ一つ、すなわち二人の結びつきの深さ、それぞれの生命力の強さである。
これが実ったところにのみ、愛が認められる。



(フロム愛61)
どうしたら愛することができるのか。
愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外にそれを経験する方法はない。
目標への階段は自分の足で登っていかねばならない。
とはいえ習練を積むためには、規律、集中、忍耐、技術の習得に最高の関心を抱くことが必要である。

(フロム愛62)
現代では、集中力を身につけることは規律よりもはるかに難しい。
集中できるということは、一人きりでいられるということであり、一人でいられるようになることは、愛することができるようになるための一つの必須条件である。

(フロム愛63)
一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。

(フロム愛64)
集中力を身につけるためには、くだらない会話をできるだけ避けることが大事だ。
くだらない会話を避けることに劣らず重要なのが、悪い仲間を避けるということである。

(フロム愛65)
他人との関係において精神を集中させるということは、何よりもまず相手の話を聞くということである。
集中するとは、今ここで全身で現在を生きることである。
自分に対して敏感にならなければ、集中力は身につかない。

(フロム愛66)
重要なことは、変化に気づくことと、手近にある理屈に飛びついてそれを安易に合理化しないことである。

(フロム愛67)
自分自身に対して敏感になるには、完成された健康な人間の精神というのがどういうものなのかを知らなければならない。
私たちは知識を教えるが、人間の成長にとって最も重要な教えを授けていない。
その教えは、人を愛することのできる成熟した人間でなければ決して授けることができない。

(フロム愛68)
成熟した人生とはどんなものかという青写真を生き生きと保っていないと、私たちの文化的伝統は全面的に崩壊してしまうかもしれない。

(フロム愛69)
客観性。
どんな種類の精神病者も客観的にものを見る能力が極端に欠如している。
狂気に陥った人や眠っている人は、外界を客観的に見ることがまったくできない。
愛の技術を身につけたければ、あらゆる場面で客観的であるように心がけなければならない。



(フロム愛70)
「信じる」ことの習練。
理にかなった信念とは自分自身の思考や感情の経験にもとづいた確信である。
信念は、人格全体に影響をおよぼす性格特徴であり、ある特定の信条のことではない。
この信念は、自分自身の経験や、自分の思考力・観察力・判断力にたいする自信に根ざしている。

(フロム愛71)
理にかなった信念は、大多数の意見とは無関係な、自分自身の生産的な観察と思考に基づいた、他のいっさいから独立した確信に根ざしている。
他人を「信じる」ということは、その人の根本的な態度や人格の核心部分や愛が、信頼に値し、変化しないものだと確信することである。

(フロム愛72)
同じ意味で私たちは自分自身を「信じる」。
私たちは、自分の中に一つの自己、いわば芯のようなものがあることを確信する。
この芯こそが「私」という言葉の背後にある現実であり、「私は私だ」という確信を支えている。

(フロム愛73)
自分自身を「信じている」者だけが他人に対して誠実になれる。
なぜなら、自分に信念を持っている者だけが、「自分は将来も現在と同じだろう、従って自分が予想しているとおりに感じ行動するだろう」という確信を持てるからだ。
信念は人間が生きてゆくための前提条件の一つである。

(フロム愛74)
愛に関していえば、重要なのは自分自身の愛に対する信念である。
つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。

(フロム愛75)
他人を「信じる」ことのもう一つの意味は、他人の可能性を「信じる」ことである。
その信念があるかどうかが教育と洗脳のちがいである。
他人を「信じる」ということをつきつめていけば、人類を「信じる」ということになる。
信念にしたがって生きるということは、生産的に生きることなのだ。

(フロム愛76)
勇気。
信念をもつには勇気がいる。
勇気とはあえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。
愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。

(フロム愛77)
信念と勇気の習練は、日常生活のごく些細なことから始まる。
第一歩は自分がいつどんなところで信念を失うか、どんなときにずるく立ち回るかを調べ、それをどんな口実によって正当化しているかをくわしく調べることだ。

(フロム愛78)
人は意識の上では愛されないことを恐れているが、本当は無意識の中で、愛することを恐れているのである。

(フロム愛79)
愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全面的に自分を委ねることである。
愛とは信念の行為であり、わずかな信念しか持っていない人は、わずかしか愛することができない。

(フロム愛80)
愛の習練にあたって欠かすことのできない姿勢、それは能動性である。
能動とは、内的能動、つまり自分の力を生産的に用いることである。
愛は能動である。

(フロム愛81)
現在のようなシステムのもとで人を愛することのできる人は、当然例外的な存在である。
人を愛することができるためには、人間はその最高の位置に立たなければならない。
人間が経済という機械に奉仕するのではなく、経済機械が人間に奉仕しなければならない。

(フロム愛82)
愛の発達を阻害するような社会は、人間の本性の基本的欲求と矛盾しているから、やがては滅びてしまう。
実際、愛について語ることは「説教」ではない。
その理由は簡単だ。
愛について語ることは、どんな人間の中にもある究極の欲求、ほんものの欲求について語ることだからである。

(フロム愛83)
愛の可能性を信じることは、人間の本性そのものへの洞察にもとづいた、理にかなった信念なのである。

2015年5月6日水曜日

目からウロコ




昨日の晩、つけっぱなしにしていたラジオから流れて来たショパンのピアノ協奏曲第一番の演奏。

冒頭のオーケストラ前奏のワンフレーズから、、、驚愕!

耳が全く離せない!!!

ソリスト、というより、最初は指揮者の名前が知りたくてうずうずしながら聴いていました。
だって、この協奏曲のオーケストラパートが、これほど細部にわたって考え抜かれ、丹念にリハーサルされ、各パートが朗々と歌い上げている演奏なんて、今迄聴いたことなかったですもん!!!

でも、聴き進めば進む程、オーケストラパートとソリストパートとの間の音楽観の一貫性と、凄まじい一体感を感じ、、

「これは、歴史的に相性の良い指揮者&ピアニストの演奏か、あるいは「弾き振り」かのどちらかだろうなあ。」

という結論に。

果たして、演奏終了後のアナウンスは、、、、

「クリスチャン・ツィメルマン弾き振りによるポーランド音楽祭オーケストラとの録音」

慌ててネットで検索してみると、、

15年以上前にリリースされたこの録音は、いまや「歴史的名盤」の仲間入りをしていたのですね。いやぁ〜、、存じ上げませんでした。。。(汗)




私は昔からどうも「奇をてらった恣意的な演奏」というのが苦手なのですよ。。

「ちょっと変わった事をしてやろう」とか
「世間で出回ってる解釈の裏を突こう」とかいう風に、

相対的に導きだした確信犯的なアイディアで構築された作品や解釈は、エンターテイメントとしては機能するかもしれませんが、芸術とは全く異なるものだと思うのです。

真の音楽的アイディアというのは、やはり自分の内部を凝視することによってしか得られないと思いますし、

作品と対峙することによって自分の内部からわき上がって来た心の叫び、あるいは作品と自分の間に生じた共鳴を通じて、作曲家のメッセージを聴衆の心に届けるのが演奏家としての誠実な在り方だと考えております。

ツィメルマンさんのこの録音は、ショパンの協奏曲を聞き慣れた方々にとったら、かなり!風変わりな演奏と言えますよね。テンポの設定からフレージングの細部に至るまで、何もかも(笑)。

でも、私にはこの演奏が「奇をてらった」ものであるとは全く感じません。
多分ツィメルマンさんが、時間をかけてこの作品に取り組んでいく過程で、自然とこのような解釈になった気がします。

それに、何と言ってもこの演奏の端々からは、ツィメルマンさんの作曲家と作品に対しての、ひいては「音楽」そのものに対する深〜〜〜い敬意と溢れんばかりの愛を感じますもの。。

演奏を聴きながら

「ああ〜、まだまだ私は音の1つ1つを祖末に扱っているし、解釈に対する姿勢も甘いなぁ〜。それに何より愛が足りてない!!!」

と猛省したのでした。。。


最近のクラシック音楽界は、ビジュアル化がどんどん進み、、、

綺麗なドレス着た美人のお姉さんや、タキシードがバッチリ決まった美青年くんが、スポットライトを浴びて観衆に黄色い声で騒がれ、もてはやされるのはよいが、、、

れじとん(旦那)の言葉を借りれば

「このピアニストと、クラヴィノーヴァの自動演奏の間には、一体どういう違いがあるんだい?」

というような気持ちになる事もたびたびあるのは事実です。


私は綺麗なドレスの似合う美女とはほど遠い、ヒョウ柄の似合いそうな大阪のオバちゃんですけど(笑)、

芸術行為とは違う部分でもてはやされ、人気者になったとしても、きっと幸せを感じないだろうなあ。。。

ツィメルマンさんのような境地に少しでも近づけるようになりたいものですね。

音楽作品に心揺り動かされ、音を通じて人に何かを伝えたいという気持ちが強くあって、また、それができる環境に恵まれているのだから、一生可能な限りそれを究めてゆければ本望です。

しかし道は遠し(亀のノロイ(笑))。。。。。。

とりあえず明日の演奏会、頑張ろ!!(笑)






2015年4月24日金曜日

お世話になった方々のこと




街路樹の若緑色が目に鮮やかな季節ですね!

みなさんはお弁当持ってピクニックなんか行かれましたか?

私の密かな楽しみは、れじとん(旦那)と一緒に、マルセイユからフェリーで30分程の沖合にあるフリウル島で週末を過ごす事。



知り合いの持ってるアパートを借りて、そこで潮の香りに包まれながらぼーーっと過ごして、、、夕方になり観光客がみんな帰った後、レストランで獲れたてのイワシを焼いてもらって食べるのです!! もう、最高に美味しいのだぁ〜っ!!!!

今年は2人とも忙しくて、まだ実現してませんけどね(涙)。。。



さてさて、1つお知らせを。

以前にもお知らせ致しましたが、今年の8月1日に東京のティアラ江東にて開催されます「真夏の第九」コンサートにて、指揮を担当させていただく運びとなりました。

この演奏会が、私にとって公式な「日本デビュー」ということになります。

デビュー演奏会の演目がベートーヴェンの第九交響曲だなんて、私はなんと幸運なのでしょうか。。。

「デビュー」という言葉に似つかわしくもない、エエ歳した大阪のオバちゃんですが(笑)、こんな私を信じてずっと応援し続けて下さった方々に具体的に感謝の気持ちを示し、恩返しをする機会をようやく得たのだ、と考えている次第です。

そしてまた、下積み期間を長く過ごした者として、このような大きなチャンスをいただけることのありがたさは、それはもう、ものすご〜く!!身にしみて感じております。

その分良い仕事をして(なんか英仏語の直訳みたいな文章ですね(笑))社会にキチンと還元せよ、ということですね。

まだまだ未熟者ですが、出来る限りの力を尽くす所存です。

みなさま、どうぞよろしくお願い申し上げます!!!





このような光栄なお話をいただくと、頭に浮かぶのは、やはり今までお世話になった数限りない方達ですよね。。。

私のような頼りない者がいまだに音楽を続けていられるのは、助けて下さったり勇気付けて下さったり根気良く教えて下さった方々との出会いがあったからだと心から思います。

お世話になった方々について1人1人ここで書き始めると、プルーストやドストエフスキーも顔負けの巨大長編になってしまいますので(笑)、数人だけここに挙げさせて頂きます。



まずは、両親。

音楽の勉強というのは途方もなくお金とエネルギーの要るものなんですよね。。。

ウチは裕福でもなんでもない普通の家庭ですから、両親にかかる負担は相当なものだったと思うのです。

でも、両親は、そんなことはおくびにも出さずに私が好きなだけ音楽を勉強できるような環境を作り続けてくれました。

よくレッスンにもついて来てもらいましたし、練習を嫌がる私を叱咤激励したり、受験準備でナーヴァスになっている時にも、根気よく傍についていてくれ、フランスに留学までさせてくれました。

一方で、音楽一辺倒で社会性の全く無い子に育たないよう、あちこち旅行に連れて行ってくれたり、色んな人達と触れ合う場を多く持たせてくれたり、深い愛情で私を育ててくれました。

両親の理解と愛情がなかったら、今頃私が音楽の道を歩んでいることはなかったでしょう。

お父さん、お母さん、ありがとうございます!!!!




次に、れじとん(旦那)。

私は23歳で電撃結婚しちゃった(笑)ので、パリに居を構えてからの全ての事は、れじとんとの二人三脚でした。

結婚当初我が家には笑っちゃうほどお金が無く(笑)、お互いに出版社やピアノ教師のバイトをなどをして何とか生き延びておりました。

そんな状態でも、れじとんは昔からずーっと、私の夢の実現を応援してくれていました。ウチには子供がいないとはいえ、家庭の事情で私の音楽の勉強や活動が拘束されたことは今まで全くないです。

それに、れじとんは昔から私にとっての「歩く辞書」のようで、わからない事があると何でも訊いて教えてもらっています。
私が身につけたヨーロッパの文化人としての一般教養と、専門家としての知識の大半は、れじとんから教わったようなものですね。

私が音楽家として独り立ちして歩んでゆけているとすれば、それはれじとんとの出会いのおかげ。彼の存在と愛情なくしてはあり得ない事だったと思います。

れじとん、ありがとうございます!!これからも共に成長できればいいな!!!



次に、永冨正之先生。

私が中学2年生の頃から芸大を卒業するまでずっとお世話になった作曲の先生です。

優秀な先輩揃いの永冨門下の中で、一番末っ子の出来の悪い「おまけ」的存在だった私ですが(笑)、先生から長〜〜い年月をかけて根気よく教わった音楽の基礎知識やソルフェージュ能力(!)があるからこそ、私は今こうしてフランスでも音楽活動を続けてゆけているのだと、心から思います。

あまりに無口な先生なので(笑)、どうやってコミュニケートしようかと、当時の幼い私は散々戸惑ったものですが、、

大阪で結婚披露宴を開いた際には、お忙しい中をわざわざ東京から駆けつけて下さり、感謝感涙でした。。。

昨年オーケストラ・ニッポニカの演奏会で、永冨先生の師匠である伊福部昭さんの作品を指揮したのですが、その際にも先生は聴きに来て下さいました、、しかも私の大先輩の夏田昌和さんの付き添いで!!

昔先生に教わった事が「元の木阿弥」(先生の口癖)になってない、という所を少しお見せ(お聞かせ)できたかしら。。。。(汗)

とはいえ、まだまだ未熟者の「末っ子」な私です。。。

永冨先生、色々とお世話になり、ありがとうございました!!!




最後に、ファビオ・ルイージさん。

今まで指揮の勉強を続けて来て、両手に入りきらない数の先生の教えを受ける機会に恵まれ、また、少なからぬ数の指揮者のアシスタントとして共に仕事をさせていただきました。

それぞれの出会いや体験から色んな事を学び、それが今の私の「糧」となっていることは間違いありません。

貴重な体験をさせていただいたこと自体に、心から感謝!です。

ただ、指揮者や指揮の先生に関しては、今まで私のことを具体的に助けてくれた、或は一歩前に進む勇気を与えてくれた人は、残念ながら1人もいませんでした。

むしろ、心が折れそうになるような仕打ちをされたり、突き刺さるような発言をされた事のほうが多かったかもしれません。

「指揮者というのは、私が人間として尊敬できる人のいない世界なのだろうか?」

と、ちょっと悩んだりした事も言い添えておきます。。

それが、数年前にルイージさんと出会って、色んな意味で救われました。

出会ってから本当に色々とお世話になりっぱなしですが、何と言っても私にとって

「自分の思い描く「こうありたい指揮者像」は間違っていなかったんだ、だってここにそれを体現してる人がいるのだから。」

と、思える様になった事はとても大きな意味を持つと思うのです。

ルイージさん、ありがとうございます!!!いつまでもお元気でいてほしいです!!!



ホント、素敵な出会いに恵まれた私は、幸せ者ですよね。。。

ここに挙げられなかった方々にも、1人1人御礼を申し上げたいです。


ありがとうございました!!!! 



さて、、、

では、仕事の打ち合わせに行ってきます(笑)。


2015年4月7日火曜日

春うらら




いやぁ〜、、春ですねぇ〜。。。

パリはここ数日めっっっっちゃ!!エエ天気。

我が家の猫達も、家中の日だまりを見つけては、ゴロ〜ンとお腹を出して気持ち良さげに日光浴。

お日様の光をたっぷり浴びるって、それだけで幸せな事やなあ、と思います。。


ところで、

先月の末、アホーヤはまた無事に1つ歳を取りました!

おかげさまで大病もせず、心も身体も健やかにここまで生きて来られたことに、そして、愛情たっぷりに生み育ててくれた両親に、感謝!感謝!です。

まあ、大体これで人生の半分くらい来たんでしょうかね?いや、もっとか?
元々あまり長生きしたいとは思ってないんですけど、、せめて世の中に少しでも役立って、幸せを届けられる人ではあり続けたいなあ、とは願っています。


人生も半ばまで来てからこんな事言うの、どうかとも思うんですけど(笑)、、、

昔、友人に「あなたは宇宙人みたいだ。つかみどころがない。」って散々からかわれた事がありました。その当時は理解できなかったのですが、最近なんとなく意味がわかるようになってきた気がします。

その、からかった友人も含めて、私の周りにいる尊敬出来る人達はみんな、色々と悩みつつも大事な節目節目にはキチンと「選択」をし、人生をちゃんと自分の意志で設計して、その設計プランの実現の為に努力を惜しまない人達ばかりです。

そういう彼らが、折々に自ら切り開いた人生を振り返って語る実感のこもった言葉には、説得力と人間的な深みが感じられて、アホーヤは
「そうか。人が人生を丁寧に全うして行くとは、こういうことなのやなあ〜。」
と、感心しつつ色々と学ばせてもらっております。

恥ずかしながらアホーヤは、そういう実のある生き方を全然して来ませんでした。

そもそも「自分の意志で何かを決めた」という覚えがないですもん(笑)。

昔から周りに言われるまま「期待に答えてみんなを喜ばせよう」と、色んな事をやって来た様には思います。

薦められるまま、用意されるままに数限りない試験やらコンクールやらも受けて、その都度良い結果が出せる様にちょっとは努力したかもしれません。(いつも良い結果とは限らなかったけどね(笑))

結婚にしたって、強い意志を持ってというのでなく、成り行きでしたし(笑)。

音楽始めたのなんて、1歳半か2歳の頃らしいから、本人の意志なわけないし(笑)。

アホーヤが何か大きな行動を起す時は、「その行為が自分の人生にとって必要だから」という理由ではあり得ません。自分以外の誰かや何かがそれを必要としているんだから&喜んでくれるから、と思うから俄然やる気が湧いてくるのです。。

でも

「1度しかない自分の人生、自分の思う様に生きなさい!あなたは何がしたいの?」

って、面と向かって訊ねられると、これが途方に暮れてしまう。。。

だって、、大元の部分で「自分の人生が自分のものである」という実感がないんだもの。

これを「自我がない」と解釈するべきなのかどうかはわかりません。
だって、アホーヤ「我欲」ありまくりですもん(笑)。
食べたいもの、見たいもの、行きたい所、好き嫌い、、、ハッキリありますし。
ただ、そのどれにも特に執着はないです。

今まで生きて来た進路の中で、ただ1度きっぱりと意思表示したのは

「指揮がやりたい。指揮者になりたい。」

ってことだけです。だから、これには執着があるのかもしれませんね。。


かなり小さい頃からずーーーーーーっと頭にあるのは、

「とにかく自分の出来る事をやれ。自分は持って生まれた能力で世の中に還元する何かしらの役目があるからここにいるのであって、それをやらずにこの世からいなくなるのが一番いけないのだ」

という、もうほとんど脅迫観念に近い使命感。

それが頭からずっと離れないから、自分の事をどこか「借り物」みたいに思って客観的に見てる部分があります。

そんな謎の客観性を持つアホーヤが、ある意味客観性とは正反対の芸術の分野に身を浸している、この矛盾よ!!!(笑)

長い間、

「こんな性格の自分って、人として致命的に欠陥アリなんとちゃうやろか?」
「もしかして私って、他人の気持ちが一切理解できてないんとちゃうやろか?」
「私の生き方に共感してくれる人は、きっとこの世に誰もいないんとちゃうやろか?」

とか色々思い悩んで来たんですけど。。。

もう人生半ば過ぎたことだし、、アホーヤのような「人間サンプル」が1つくらいあっても、まあエエんではないか、と、最近やっと開き直れるようになりましたですよ(笑)。

それに、歳とともに体力も落ちて来ますから、今までは、頼まれた事で自分の出来ることは全部引き受けてましたけど、そうもいかなくなってきましたね。
そうなると、やっぱり「選択」してかなくちゃならず、、、何を結局選んだか、という所に、思いがけず自分の「意志」を再発見し「おおお」と感動したりなんかして(笑)、なかなか面白いです。



宇宙人のようにつかみどころなく、フワフワあてもなく漂うアホーヤの人生(笑)ですが、おかげさまで、素敵な出会いや幸運に恵まれた幸せな毎日を過ごせております。

単純なので、ちょっとした事ですぐ感動して幸せ感を味わえる私(笑)ですが、、、
最近、今までに味わったどの気持ちとも違うものすごい至福感、というのを体験しました。

ようするに、「とある人と出会った」というだけの話なんですけど、、、

その人と見つめ合い微笑みを交わし合っただけで、私の中の全てが肯定され「何かが大丈夫になった」、と。
で、その後にえも言われぬノスタルジーというか充足感というか幸福感というか達成感のようなものが怒濤のように襲って来て、自分の中の何かが覚醒した。

こうして文章で書くと「なんだ。ただの年甲斐もない一目惚れぢゃないか!」って思われるかもしれませんが(笑)、そういう次元の話ではないのです。

あまりにも不思議な感覚だったので、久しぶりにスピリチュアル系の文献とかを調べてしまいました(笑)。
そして、あった!近い感じの説明が!

ツインレイ、ツインソウル

興味のある方は、上の言葉で検索してみてくださいまし。。。

そして、その「出会い」の後アホーヤはどうなったかというと、、、

「ますます使命感が増した」

全然ロマンチックな展開やなくて、すいません(笑)。



まあ、こういうエエ加減な私ですが、今後ともよろしくお付き合い下さいませ〜〜〜❤









2015年2月16日月曜日

幕開け



年明けに年賀ブログを書こうと思っていた矢先、突然起こったパリのウチの近所でのテロ事件。
ショッキングな2015年の始まりに呆然としているうちに、、、

気がつけばもう2月中旬やないですか!(笑)。

何が起ころうと、時はどんどん過ぎてゆくものですね。。。


さて、2ヶ月もブログを放置すると、書く事がいっぱいありすぎて困りますけど(笑)、かいつまんで色々とお知らせ&ご報告を。



まず、インドネシア・ユース交響楽団について。

私が音楽監督を務めるインドネシア初のユースオーケストラの公式ホームページが、公開できる状態にまで完成しました!!

音楽アドヴァイザーを引き受けていただいているファビオ・ルイージさんにお伝えすると、めっちゃ喜んで(笑)素敵な冒頭メッセージを書いて下さいました!

英語のサイトですが、よろしければご覧になってみて下さいね!!

インドネシア・ユース交響楽団公式ホームページ
http://iysorch.wix.com/music

そのうちルイージさんとインドネシアでご一緒する機会もやって来るのかねぇ!?(笑) でも、、どうも来るような気がするんよなあ〜。何せインドネシアは香水の原料になる植物がいっぱいあるし(笑)。。

ルイージさんが自分で調香している香水ブランドFL Parfums の公式ホームページ
http://www.flparfums.com





次に、ラジオ・ポッドキャストについて。

1月の下旬に、フランス国立放送のフランス・ミュージック局で放送されている番組に生放送のゲストとして招待され、自分で選んだ音楽作品を流しながら色々としゃべらせて頂きました。1人でしゃべるのは寂しいので(笑)、私が昨年秋に創設したアンサンブルの仲間2人にも一緒に来てもらい、プロデューサーとの4人の対談形式での放送となりました。
こちらはフランス語となってしまいますが(汗)、、よろしければ以下のサイトからポッドキャストをお聴き頂けますので、どうぞ〜!

France Musique "Les lundis de la contemporaine", animé par Arnaud Merlin
http://www.francemusique.fr/emission/le-magazine-de-la-contemporaine/2014-2015/l-invitee-kanako-abe-01-26-2015-21-30



それから、いくつかの演奏会についてのご報告を。


8月1日、東京都江東区にある「ティアラこうとう」という音楽ホールにて開催されます「真夏の第九」演奏会にて、指揮を担当させていただくこととなりました。
オーケストラは東京シティフィルハーモニック管弦楽団さん。私にとって、日本のプロ・オーケストラへの初客演となり、とても光栄に思っております!!!!
先だって、この演奏会に合唱団員として参加される方を160名募集中のようです。
ご興味のある方は、下記のリンクをご覧の上お早めに主催者にお問い合わせ下さいませ。

http://www.kcf.or.jp/tiara/event_detail_020200400163.html



12月初旬には、ヴェトナム国立交響楽団へ客演をさせていただきます。
プログラムについて、ずいぶん長い間音楽監督で今回の客演をご提案下さった本名徹次さんと話し合いをした結果、

ヴェトナム人作曲家の作品 −詳細未定−
サンサーンス ピアノ協奏曲第五番「エジプト風」(ソリスト 萩原麻未)
ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲
ラヴェル ダフニスとクロエ 第二組曲 (ヴェトナム初演)

というフレンチ・プログラムに決定しました。



2011年にユネスコで開催した「東日本大震災チャリティー演奏会」で素晴らしいラヴェルの協奏曲の演奏を披露して下さり大変お世話になったピアニストの萩原麻未さん。4年ぶりの共演の機会に恵まれとても嬉しいです!!
また、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」は今回がヴェトナム初演、ということです。
先日チューリッヒまでルイージさんに会いに行った際

「まだこの曲、ヴェトナムで演奏されたことなかったみたいですよ!フランスに住んでる私はビックリですよ〜!」

と言うと

「そうだねえ。ボクも昔スイス・ロマンド管弦楽団の首席指揮者してた時期があったけど、、あのオケもアンセルメの指揮のもと、フレンチ・レパートリーをしっかりさらい込んでるから、いわゆるフランスものの名曲は殆ど暗譜で弾けるくらいに得意なんだよね。そういう背景がないオーケストラだと、1から全部説明する必要があるかもね。いやぁ〜、楽しそうだ! 頑張ってね〜〜〜!!!」

と、いらんプレッシャーをかけて面白がるルイージさん。をいをい〜(苦笑)。

でも、考えてみればこれからインドネシアで演奏してゆくプログラムの中には、「インドネシア初演」の作品もいっぱいあるんでしょうねぇ〜。。
今まで、現代作曲家の新曲初演を多く手がけてきた私ですが、別な形での「初演」も今後増えてゆくのかと思うと、ワクワクする反面責任も感じる次第です。。勉強しなくては!



あとは、、、

雑誌「音楽の友」2月号で組まれた「43人の音楽評論家・新聞記者が選ぶコンサート・ベストテン2014」という特集で、朝日新聞の吉田純子記者が私が昨年の5月に客演させていただいたオーケストラ・ニッポニカとの演奏会を取り上げて下さいました。



 
オーケストラ・ニッポニカさんとの演奏会は、実は私の日本での指揮者としての初仕事だったのです!!それだけでも光栄な事だったのに、こうしてメディア媒体に取り上げていただけるなんて、信じられません。。。。
お世話になり、また、貴重な機会を与えて頂いたニッポニカの団員、スタッフの皆様にこの場を借りて深く御礼申し上げます。


最後に、、

この度私の日本及びヨーロッパ以外の諸外国での活動をEast Friends社(東油商事合名会社音楽事業部)さんにマネージメントしていただく運びとなりましたので、お知らせ致します。
元々存在していた会社に新規で「音楽事業部」が開設されたばかりの、出来立てホヤホヤの事務所さんです!公式ホームページも今月中にオープンするようですので、また追って色々とお知らせ致しますね!!

East Friends フェースブック公式ページ
https://www.facebook.com/eastfriendsmusic?ref=hl



とりあえずは、こんなところでしょうか。。。

今年もマイペースに自分を磨いてゆきたいと思います。
みなさま!不束者の私ですが、今年もどうぞよろしくお願いします!!!!

とりあえずは、目下準備中の演奏会のスコアをしっかりさらおう!!(笑)