2015年7月5日日曜日

たまさかの逢瀬


七夕の日を前に。

昔から好きで時々読み返している本の内容を箇条書きでうまくまとめたものをネット上で発見したので、忘備録がわりに貼付けておきます。

なんか、個人的な目的でブログ使っちゃって申し訳ないですけど(汗)、、、

もしこの箇条書きの内容がみなさんにとっても参考になれば、と思い、一応公開致しますね。

ではでは!

来週からしばらく日本滞在です!楽しみ〜〜〜〜〜!!!!

お世話になる方、どうぞよろしく御願い致します!!!








エーリッヒ・フロム『愛するということ』(鈴木晶訳・紀伊国屋書店)から
(フロム愛1)
愛というものは簡単に浸れるような感情ではない。
真の意味で人を愛するには、自分の人格を発達させ、それが生産的な方向に向くよう全力で努力しなければならない。

(フロム愛2)
われわれが生きているこの社会では、愛する能力を身につけることは容易ではない。
実際、真に人を愛することのできる人は驚くほどに少ない。
しかし愛する能力を身につけるための仕事が困難だからといって、その努力を放棄してはならない。

(フロム愛3)
人びとが愛を軽く見ているわけではない。
それどころか誰もが愛に飢えている。
ところが、愛について学ばなければならないことがあるのだと考えている人はほとんどいない。
それはなぜだろう。

(フロム愛4)
愛について学ぶことはないと考える第一の理由は、たいていの人は愛の問題を、「愛する能力」の問題ではなく、「愛される」という問題として捉えているからだ。
つまり人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるかということなのだ。

(フロム愛5)
愛について学ぶことはないと考える第二の理由は、愛の問題は「対象」の問題であって、「能力」の問題ではない、という思い込みである。
愛することは簡単だが、ふさわしい相手をみつけることはむずかしい、人びとはそんなふうに考えている。

(フロム愛6)
愛について学ぶことはないと考える第三の理由は、恋に「落ちる」という最初の体験と、愛のなかに「とどまっている」という持続的な状態とを、混同していることである。

(フロム愛7)
愛の失敗を克服するただ一つの方法は、愛の意味を学ぶこと、その第一歩は、生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であるということを知ることである。
愛の技術を習得するには、理論に精通し、その習練に励み、その技術を習得することが究極の関心事にならなければならない。



(フロム愛8)
人間は孤立することを最も恐れている。
孤立は強い不安を生む。
人間の最も強い欲求は、孤立を克服したいという欲求である。
人間はいつのどの時代でも、同じ一つの問題の解決に迫られている。
いかに孤立を克服するか、いかに他者との一体化を得るか、という問題である。

(フロム愛9)
人間は孤立感から逃れるために、「祝祭的な興奮状態」「集団等への同調」「創造的な活動」といった方法をとるが、完全な答えは人間どうしの一体化、他者との融合、すなわち「愛」にある。
自分以外の人間と融合したいというこの欲望は、人間の最も強い欲望である。

(フロム愛10)
愛は人間のなかにある能動的な力である。
人を他の人びとから隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である。
愛によって、人は孤独感や孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。

(フロム愛11)
愛においては二人が一人になり、しかも二人でありつづけるというパラドックスが起きる。

(フロム愛12)
静かに椅子にすわって自分自身に耳を傾けひたすら物思いにふけっている人は、外見的には何もしていないので「受動的」と言われる。
だが実際は、この精神を集中した瞑想の姿勢はもっとも高度な活動である。
内面的な自由と独立がなければ実現できない魂の活動である。

(フロム愛13)
愛は能動的な活動であり受動的な感情ではない。
そのなかに「落ちる」ものではなく「みずから踏みこむ」ものである。
愛は何よりも与えることであり、もらうことではない。
たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ。

(フロム愛14)
愛とは愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことができないということである。
「愛は愛とだけしか交換できない。もし人を愛してもその人の心に愛が生まれなかったとしたら、その愛は無力であり不幸である。(マルクス)」

(フロム愛15)
真に人を愛するには、その人の性格が生産的な段階に達していなければならない。
この段階に達した人は、依存心、ナルシシズム的な全能感、他人を利用しようとなんでも貯めこもうする欲求を克服し、自分の中にある人間的な力を信じ、自分の力に頼ろうという勇気を獲得している。

(フロム愛16)
愛の能動的性質を示す基本的な要素に「配慮」がある。
愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。
この積極的な配慮のないところに愛はない。
愛の本質は、何かのために「働く」こと、「何かを育てる」ことにある。
愛と労働は分かちがたいものである。



(フロム愛17)
愛の基本的要素「責任」。
責任とは他の人間が何かを求めてきたときの私の対応である。
「責任がある」ということは、他人の要求に応じられる、応じる用意がある、という意味である。
愛する心をもつ人は求めに応じる。
おとなどうしの愛の場合は、相手の精神的な求めに応じることである。

(フロム愛18)
愛の基本的要素「尊敬」。
尊敬とは人間のありままの姿をみて、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。
自分が独立していなければ人を尊敬することはできない。
自由であってはじめて人を尊敬できる。
「愛は自由の子」であり、けっして支配の子ではない。

(フロム愛19)
愛の基本的要素「知」。
人を尊敬するにはその人のことを知らなければならない。
自分自身にたいする関心を超越して、相手の立場にたってその人を見ることができたときにはじめて、その人を知ることができる。

(フロム愛20)
他の人と融合したいという基本的な欲求は、「人間の秘密」を知りたいという人間的な欲求と密接にかかわっている。
秘密を知るための方法が一つある。ただし絶望的な方法ではある。
それは、他人を完全に力で抑えこむことである。
「秘密」を知るためのもう一つの方法が愛である。

(フロム愛21)
愛とは能動的に相手の中へと入っていくことであり、その結合によって相手の秘密を知りたいという欲望が満たされる。
融合において、私はあなたを知り、私自身を知り、すべての人間を知る。
愛こそが他の存在を知る唯一の方法である。

(フロム愛22)
人間を知るという問題は、神を知るという宗教的な問題と平行関係にある。
神学の論理的帰結が神秘主義であるように、心理学の究極の帰結は愛である。

(フロム愛23)
成熟した人間とは、自分の力を生産的に発達させる人、自分でそのために働いたもの以外は欲しがらない人、全知全能というナルシシズム的な夢を捨てた人、純粋に生産的な活動からのみ得られる内的な力に裏打ちされた謙虚さを身につけた人のことである。



(フロム愛24)
母親の愛は無条件の愛である。
母親に愛されるというすべての経験は統合され、私は愛されているという経験へと結晶する。
しなければならないことといったら、生きていること、そして母親の子どもであることだけだ。
無条件であるだけに、どんなことをしても創りだすことはできない。

(フロム愛25)
十歳くらいの年齢に達するまで、子どもにとって問題なのはもっぱら愛されること、つまりありのままの自分を愛されることだけだ。
やがて子どもはナルシシズムと自己中心主義によって築かれた孤独と隔離の独房から抜け出す。
愛することを通じて、愛を生み出す能力を自分の中に感じる。

(フロム愛26)
幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。
成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。
未成熟な愛は「あなたが必要だからあなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているからあなたが必要だ」と言う。

(フロム愛27)
父親の愛は条件つきの愛である。
子どもを教育し、世界へつながる道を教える。
条件つきなので、父親の愛を受けるには資格がいる、つまり期待にこたえなかった場合にはその愛を失うということである。
父親の愛の性質からすると、服従こそが最大の美徳である。

(フロム愛28)
やがて子どもは成熟し、自分自身が自分の母親であり父親であるような状態に達する。
成熟した人間は実際の母親や父親からは自由になっており、自分の内部に母親像と父親像をつくりあげている。
母親的良心と父親的良心は矛盾するように見えるが、成熟した人間はその両方で人を愛する。

(フロム愛29)
母親への愛着から父親への愛着へと変わり、最後に双方が統合されるというこの発達こそ、精神の健康の基礎であり、成熟の達成である。
神経症の基本原因は、この発達がうまくいかないことである。



(フロム愛30)
愛とは、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。
一人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。

(フロム愛31)
誰かに「あなたを愛している」と言うことができるなら、「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」と言えるはずだ。

(フロム愛32)
兄弟愛とは、あらゆる他人にたいする責任、配慮、尊敬、理解(知)のことであり、その人の人生をより深いものにしたいという願望のことである。
もし愛する能力がじゅうぶんに発達していたら、兄弟たちを愛さずにはいられない。
兄弟愛の底にあるのは、私たちは一つだという意識である。

(フロム愛33)
すべての人間がもつ人間的な核は同一であり、それに比べたら、才能や知性や知識のちがいなど取るに足らない。
この同一感を体験するためには、表面から核まで踏みこむことが必要である。
この中心と中心との関係が「中心的関係」である。

(フロム愛34)
自分の役に立たない者を愛するときにはじめて、愛は開花する。

(フロム愛35)
母性愛は子どもの生命と必要性に対する無条件の肯定である。
母性愛の一つの側面は、子どもの生命と成長を保護するために絶対に必要な、気づかいと責任である。

(フロム愛36)
母性愛のもう一つの側面は、生きることへの愛を子どもに植えつけ、「生きているというのはすばらしい」「子どもであるというのは良いことだ」「この地上に生を受けたことはすばらしい」といった感覚を子どもに与えるような態度である。

(フロム愛37)
母性愛の二つの側面は、聖書の象徴にも表現されている。
約束の地(大地はつねに母の象徴)は、「乳と蜜の流れる地」として描かれている。
乳は愛の第一の側面、すなわち世話と肯定の象徴である。
蜜は人生の甘美さや、人生への愛や、生きていることの幸福を象徴している。

(フロム愛38)
たいていの母親は「乳」を与えることはできるが、「蜜」も与えることのできる母親はごく少数で、そのためには母親はたんなる「良い母親」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならないが、そういう母親はめったにいない。

(フロム愛39)
人生にたいする母親の愛は、不安と同じく子どもに感染しやすい。
どちらも子どもの全人格に深刻な影響をおよぼす。
実際、子どもたちのなかに——いや大人たちのなかにさえ——「乳」だけを与えられた者と、「乳と蜜」を与えられた者とを見分けることができるくらいである。

(フロム愛40)
母性愛の本質は子どもの成長を気づかうことであり、これはつまり子どもが自分から離れてゆくのを望むということである。
母親は子どもの巣立ちを耐え忍ぶだけでなく、それを望み、後押ししなければならない。

(フロム愛41)
愛情深い母親になれるかなれないかは、すすんで別離に堪えるかどうか、そして別離の後も変わらず愛しつづけることができるかどうかによるのである。



(フロム愛42)
異性愛とは、他の人間と完全に融合したい、一つになりたいという強い願望である。
異性愛はその性質からして排他的であり、普遍的ではない。
またおそらくはもっとも誤解されやすい愛の形である。
愛は自分の全人生を相手の人生に賭けようという決断の行為であるべきだ。

(フロム愛43)
誰かを愛するというのは単なる激しい感情ではない。
それは決意であり、決断であり、約束である。
もし愛が単なる感情にすぎないとしたら、「あなたを永遠に愛します」という約束はなんの根拠もないことになる。

(フロム愛44)
愛は誰かに影響されて生まれるものではなく、自分自身の愛する能力にもとづいて、愛する人の成長と幸福を積極的に求めることである。
一人の人間を愛するということは、人間そのものを愛することでもある。



(フロム愛45)
自己愛。
私自身も他人と同じく私の愛の対象になりうる。
自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち気づかい・尊敬・責任・理解(知)に根ざしている。
もしある人が生産的に愛することができるとしたら、その人はその人自身をも愛している。

(フロム愛46)
自己愛。
もし他人しか愛せないとしたら、その人はまったく愛することができないのである。
利己主義と自己愛とは、同じどころかまったく正反対である。
利己的な人は自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。
いや実際のところ彼は自分を憎んでいるのだ。

(フロム愛47)
子どもをかまいすぎる母親は、意識の上では心から子どもを愛していると思いこんでいるが、実は深く抑圧された憎悪を抱いている。
彼女が子どもをかまいすぎるのは、子どもを愛しすぎているからではなく、子どもを全然愛することができず、それを償おうとしているからだ。

(フロム愛48)
神への愛。
真に宗教的な人は、もしも一神教思想の本質に従うならば、何かを願って祈ったりしないし、神に対していっさい何も求めない。
そういう人は、自分の限界を知るだけの謙虚さを身につけており、自分が神について何一つ知らないということを承知している。

(フロム愛49)
彼はこう考える。
人生は、自分の人間としての能力をより大きく開花できるような機会を与えてくれるという意味においてのみ価値があり、能力の開花こそが真に重要な唯一の現実であり、「究極的関心」の唯一の対象なのだと。
そして彼は神について語らないし、その名を口にすることもない。

(フロム愛50)
従って神を愛するということは、最大限の愛する能力を獲得したいと願うことであり、「神」が象徴しているものを実現したいと望むことなのである。
神への愛とは思考によって神を知ることではなく、神との一体感を経験する行為である。
それゆえ正しい生き方が重視されることになる。

(フロム愛51)
神への愛は、はじめは母なる女神への無力な者の依存であり、次に父性的な神への服従となり、成熟した段階になると、人間は神を、人間の外側にある力とみなすことはやめ、愛と正義の原理を自分自身のなかに取りこみ、神と一つになる。

(フロム愛52)
そして最終的には、詩的にあるいは象徴的にしか神について語らないようになる。
問題はその人がどこまで成熟したかということなのである。



(フロム愛53)
西洋文明の社会構造とそこから生まれた精神は、愛の発達を促すものではない。
現代の社会が必要としている人間は、大人数で円滑に協力しあう人間、飽くことなく消費したがる人間、好みが標準化されていて外からの影響を受けやすく、その行動を予測しやすい人間である。

(フロム愛54)
また自分は自由で独立していると信じ、いかなる権威・主義・良心にも服従せず、それでいて命令には進んで従い、期待に沿うように行動し、摩擦を起こすことなく社会という機械に自分をはめこむような人間、命令に黙々と従って働く人間である。

(フロム愛55)
その結果、現代人は自分自身からも、仲間からも、自然からも疎外されている。
誰もが孤独で、孤独を克服できないときにかならずやってくる不安定感・不安感・罪悪感におびえている。

(フロム愛56)
愛があっても対立は起きる。
二人の人間の間に起きる真の対立は決して破壊的ではない。
そういう対立はかならずや解決し、カタルシスをもたらし、それによって二人はより豊かな知識と能力を得る。

(フロム愛57)
二人の人間が自分たちの存在の中心と中心で意志を通じあうとき、すなわちそれぞれが自分の存在の中心において自分自身を経験するとき、はじめて愛が生まれる。
この「中心における経験」の中にしか人間の現実はない。

(フロム愛58)
人間の生は「自分の中心における経験」の中にしかなく、従って愛の基盤もそこにしかない。
そうした経験にもとづく愛は、たえまない挑戦である。
それは安らぎの場ではなく、活動であり、成長であり、共同作業である。

(フロム愛59)
調和があるのか対立があるのかは、根本的な事実に比べたら取るに足らない問題だ。
根本的な事実とは、二人の人間がそれぞれの存在の本質において自分自身を経験し、自分自身と一体化することによって相手と一体化するということである。

(フロム愛60)
愛があることを証明するものはただ一つ、すなわち二人の結びつきの深さ、それぞれの生命力の強さである。
これが実ったところにのみ、愛が認められる。



(フロム愛61)
どうしたら愛することができるのか。
愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外にそれを経験する方法はない。
目標への階段は自分の足で登っていかねばならない。
とはいえ習練を積むためには、規律、集中、忍耐、技術の習得に最高の関心を抱くことが必要である。

(フロム愛62)
現代では、集中力を身につけることは規律よりもはるかに難しい。
集中できるということは、一人きりでいられるということであり、一人でいられるようになることは、愛することができるようになるための一つの必須条件である。

(フロム愛63)
一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。

(フロム愛64)
集中力を身につけるためには、くだらない会話をできるだけ避けることが大事だ。
くだらない会話を避けることに劣らず重要なのが、悪い仲間を避けるということである。

(フロム愛65)
他人との関係において精神を集中させるということは、何よりもまず相手の話を聞くということである。
集中するとは、今ここで全身で現在を生きることである。
自分に対して敏感にならなければ、集中力は身につかない。

(フロム愛66)
重要なことは、変化に気づくことと、手近にある理屈に飛びついてそれを安易に合理化しないことである。

(フロム愛67)
自分自身に対して敏感になるには、完成された健康な人間の精神というのがどういうものなのかを知らなければならない。
私たちは知識を教えるが、人間の成長にとって最も重要な教えを授けていない。
その教えは、人を愛することのできる成熟した人間でなければ決して授けることができない。

(フロム愛68)
成熟した人生とはどんなものかという青写真を生き生きと保っていないと、私たちの文化的伝統は全面的に崩壊してしまうかもしれない。

(フロム愛69)
客観性。
どんな種類の精神病者も客観的にものを見る能力が極端に欠如している。
狂気に陥った人や眠っている人は、外界を客観的に見ることがまったくできない。
愛の技術を身につけたければ、あらゆる場面で客観的であるように心がけなければならない。



(フロム愛70)
「信じる」ことの習練。
理にかなった信念とは自分自身の思考や感情の経験にもとづいた確信である。
信念は、人格全体に影響をおよぼす性格特徴であり、ある特定の信条のことではない。
この信念は、自分自身の経験や、自分の思考力・観察力・判断力にたいする自信に根ざしている。

(フロム愛71)
理にかなった信念は、大多数の意見とは無関係な、自分自身の生産的な観察と思考に基づいた、他のいっさいから独立した確信に根ざしている。
他人を「信じる」ということは、その人の根本的な態度や人格の核心部分や愛が、信頼に値し、変化しないものだと確信することである。

(フロム愛72)
同じ意味で私たちは自分自身を「信じる」。
私たちは、自分の中に一つの自己、いわば芯のようなものがあることを確信する。
この芯こそが「私」という言葉の背後にある現実であり、「私は私だ」という確信を支えている。

(フロム愛73)
自分自身を「信じている」者だけが他人に対して誠実になれる。
なぜなら、自分に信念を持っている者だけが、「自分は将来も現在と同じだろう、従って自分が予想しているとおりに感じ行動するだろう」という確信を持てるからだ。
信念は人間が生きてゆくための前提条件の一つである。

(フロム愛74)
愛に関していえば、重要なのは自分自身の愛に対する信念である。
つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。

(フロム愛75)
他人を「信じる」ことのもう一つの意味は、他人の可能性を「信じる」ことである。
その信念があるかどうかが教育と洗脳のちがいである。
他人を「信じる」ということをつきつめていけば、人類を「信じる」ということになる。
信念にしたがって生きるということは、生産的に生きることなのだ。

(フロム愛76)
勇気。
信念をもつには勇気がいる。
勇気とはあえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。
愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。

(フロム愛77)
信念と勇気の習練は、日常生活のごく些細なことから始まる。
第一歩は自分がいつどんなところで信念を失うか、どんなときにずるく立ち回るかを調べ、それをどんな口実によって正当化しているかをくわしく調べることだ。

(フロム愛78)
人は意識の上では愛されないことを恐れているが、本当は無意識の中で、愛することを恐れているのである。

(フロム愛79)
愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全面的に自分を委ねることである。
愛とは信念の行為であり、わずかな信念しか持っていない人は、わずかしか愛することができない。

(フロム愛80)
愛の習練にあたって欠かすことのできない姿勢、それは能動性である。
能動とは、内的能動、つまり自分の力を生産的に用いることである。
愛は能動である。

(フロム愛81)
現在のようなシステムのもとで人を愛することのできる人は、当然例外的な存在である。
人を愛することができるためには、人間はその最高の位置に立たなければならない。
人間が経済という機械に奉仕するのではなく、経済機械が人間に奉仕しなければならない。

(フロム愛82)
愛の発達を阻害するような社会は、人間の本性の基本的欲求と矛盾しているから、やがては滅びてしまう。
実際、愛について語ることは「説教」ではない。
その理由は簡単だ。
愛について語ることは、どんな人間の中にもある究極の欲求、ほんものの欲求について語ることだからである。

(フロム愛83)
愛の可能性を信じることは、人間の本性そのものへの洞察にもとづいた、理にかなった信念なのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿